投稿

5月, 2022の投稿を表示しています

宮本節子「AV出演を強要された彼女たち」読書メモ

宮本節子「AV出演を強要された彼女たち」ちくま新書 2016年 文章が教科書的で読んでいて楽しくはない。 筆者の感情は殆どにじみ出てこない。 筆者はAVというモノがなくなった方が良い、と考えているのか、それとも、しっかりと労働環境を整えた方が良い、と考えているのか、よく判らなかった。 掲載されている5例は、騙す方も騙す方だが騙される方も騙される方。 契約書に記名・捺印する事に関する意識と覚悟がこれだけ低ければ、今回コレで騙されなくても他の何かで騙されそう。若い女性をひとりで事務所や人目につかない場所に連れて行こうとする時点で、何かしら怪しいと思う感性が必要。絶対にやりたくないのではれば、絶対についていってはいけない。話をすると丸め込まれる可能性があるので、話もしない方が良い。 全文を掲載とされているメールの文面(P128)、若い女性のメールの文章には思えない、妙に明瞭簡潔な文章。最初に読んだ時はてっきり筆者が完全に過剰に推敲しているのかと思った。

Disney+「オビ=ワン・ケノービ」雑感(ネタバレ有り)

Disney+「オビ=ワン・ケノービ」雑感 EP3のラストシーンを劇場で初見で観ている最中は、双子の太陽、ルークの家、あの音楽、似すぎている若いオーウェンおじさん、EP4を初めて観た中1の夏の興奮も蘇り、STAR WARSの<新作>を映画館で観るのはこれが最後、という感傷的な気分に浸っていたのだが、鑑賞後に冷静になって考えると、EP3の終わり方はEP4にうまく繋がっていない、という疑問が生じてきた。ヨーダとオビ=ワンがあんな風に将来の事をちゃんと相談する事ができる余裕があるのなら、バラバラに20年も隠遁する必然性はない。ルークもレイアも含めて一緒にアウターリムのわびしい星に身を潜めて、ジェダイの残党を集めて機を伺えば良い。基本的に一緒にいる方が身も守りやすい。2005年のその時点では、EP3とEP4の間を埋める<新作>が制作されるなんて夢にも思っていないので、ちゃんと繋がってない気がするけどもう終わりだからまあいいか、STAR WARSというコンテンツが現時点の映画6作品で完全に終了なら(情緒的に)許そう、という気分だった。EP3の初見後に感じたこの感想は17年を経た今も変わっていない。 もっと具体的に言えば、ジェダイと共和国が壊滅的な打撃を受けて、連絡手段も失って、各自緊急避難をして、ルークとレイアもオビワンやヨーダが自ら託すのではなく、一緒にいると守りきれない程の窮地(数的不利)に陥りそうなので、やむなく信頼している人に任せた(誰がどこに連れていったか判らない)、くらいの支離滅裂な逃走劇でないと繋がらない気がしたのだが、アニメ「バッドパッチ」「反乱者たち」を見ると、EP3〜EP4の間も、旧共和国残党はそれなりに組織化されて活動しているようなので、EP3のラストからではすんなりとは繋がらない問題は更に強くなっている。 ルーカスは、EP3を作った時点では「これが最後のSTAR WARSだから、多少無理が生じそうでも、細かい事は気にせずに、なんとなく未来の希望に繋がるムードでEP4に直結する感じで終えてしまおう」と考えたのではないか、と想像する。そもそも「STAR WARSはEP4当初から9部作として構想されていた」という話は眉唾ではないか、と当時から思っている。ルーカスの中に大雑把な展開案はあったにせよ、各キャラの細かい生涯年表レベルまでの構築は、EP3制作時点でも

樋口真嗣「シン・ウルトラマン」雑感

イメージ
樋口真嗣「シン・ウルトラマン」2022年公開 TOHOシネマズ渋谷で鑑賞。 ウルトラマンさえ国家の管理下に置こうとする政府・自衛隊関係者の悪戦苦闘を「シン・ゴジラ」と同様の手法で描く展開を予想していたが外れた。 「シン・ゴジラ」はゴジラvs人間でシンプルな構造だが、今作は戦うのは基本的にウルトラマンで、そこを補強する物語や人間ドラマはいまいちの感。 「シン・ゴジラ」の面白さと斬新さは、現実世界に本当にゴジラが出現したらどうなるかという話を、ファンタジー色と人間ドラマを排除して、ドキュメンタリー的なルックで最初から最後まで描ききった所にあったが、「シン・ウルトラマン」はそれに近い方法論を踏襲しつつ、いろいろ他の要素を取り入れて、全体的には逆に薄味になったような印象。 ウルトラマン(ウルトラきょうだい)は全面的に地球の味方かと思いきや、ゾフィーが太陽系ごと殲滅させるべくゼットンを出撃(?)させる、という驚きの展開。宇宙空間に佇むゼットンはエヴァの使徒風。 オリジナルのタイトル・音楽ががんがん使われる序盤は普通に楽しい。 シン・ゴジラ風太明テロップ出まくりは冒頭だけ(表示時間が短かすぎて読みきれないw)。 6月3日宇多丸さん、まずは褒めてから怒涛のダメ出し。全体的には若干否定寄り? 宇多丸さんは「冒頭で「シン・ゴジラ」とはリアリティラインが違うという事が判る」みたいな事を言っていたが、どこで判るのだろう? 僕はシン・ゴジラ風太明テロップでまくりの冒頭で「シン・ゴジラと同じ世界観で同じような展開なんだ」と思ってしまったのだが…。 ○シン・ゴジラのタイトルがシン・ウルトラマンのタイトルにつながる ○シン・ゴジラ風太明テロップでまくり 上記2点を排除して「シン・ゴジラ」とは明確に違うルックで始まってくれた方が、最初から全く別系統の作品として楽しめた気がするのは、1回だけ観た現時点での素直な感想。  

乾くるみ「イニシエーション・ラブ」読書メモ

乾くるみ「イニシエーション・ラブ」文春文庫 2007年 随分前に映画を見て、前半/後半で大きな仕掛けがあるのは覚えていたが、その仕掛けが何だったかは忘れていた。予備知識ゼロで読んだとしても、sideA/sideBと明確に区切っているし、鈴木の性格が相当に違う感じなので、同じ名字と愛称だが別人、という疑惑はsideBの前半で普通に湧いてきそう。この疑惑を抱かせない為には、sideAの終わりの方に、僕の人生は初交際・初体験によってまるでカセットテープをひっくり返すように180度変わった、という一文があってもよかった。sideBのかなり早い段階に本屋に行かずにパチンコ屋で時間をつぶすくだりで疑惑は相当高まり、海水浴のくだりと、ハードカバーの本のくだりで、普通の読み手なら仕掛けに気付けると思う。 そもそもsideAの時点で、交際開始後にお互いひとり暮らしで週に1回しか会わないのは非常に不自然。普通なら通い同棲になる。 この話で一番興味深いのは二股をかけて同じニックネームで呼ぶ繭子の心理。 中絶した子供の父親が本当にsideBの鈴木なのかどうかも明確に描かれない。 CD(ランダム再生)時系列バラバラの繭子編をこれはどっち? と推理しながら読みたい。 もうひとりの鈴木(たっくん)がいたという展開も作れそう。 sideBの冒頭、鈴木がやたらと食欲がないのは何だったんだろう? 遠距離恋愛のストレス? P197の石丸さんの台詞「……一緒にご飯を食べる同期の子たちが休みだもんで……」、 東京出身と思われる石丸さんが「だもんで」を使っている理由を推理。 ①作者(静岡出身)が「だもんで」は中部地方の方言と気づかずに使用 ②作者は「だもんで」は中部地方の方言と知っているが、気にいっているので、全国的に流行らせたいと思ってあえて使っている ③石丸さんの親は実は中部地方出身 男性目線の性描写が結構リアルだな、と思ったら、女性みたいなペンネームだが男性。 80年代に青春を過ごしたので、連絡手段が電話のみ、という時代の青春恋愛小説として、仮に仕掛けがない普通の展開だったとしても、そこそこ普通に楽しめたと思う。もう少し当時ならではのムードがあれば更に良かった。 --------------------------- Netflixで映画を再見。 同じ役者が二役演じていた記憶していたが、それは間違いで、

劇団ひとり「青天の霹靂」雑感

劇団ひとり「青天の霹靂」2014年公開 U-NEXT タイムスリップして若い両親に会う。 もっと色々展開があるかと思ったらそうでもない。 枝葉を落とせば30分でも語れそうな展開。 風間杜夫起用は「異人たちとの夏」オマージュ? 劇中で最も大きな決断をするのは母親の柴咲コウだが、 たとえ自分の命を落としても出産する事を決意するに至る心理は殆ど描かれない。 主人公は一番大きな話がある人物のそばにいるという構造は「浅草キッド」と同様。

谷口正晃「シグナル 月曜日のルカ」雑感

 谷口正晃「シグナル 月曜日のルカ」2012年公開 U-NEXT ヒロイン三根梓と古い映画館以外にこれといって見どころなし。 強調する部分が違うので意味が伝わりにくい言い方の台詞散見。 昔の出来事のトラウマを抱えて心を閉ざしているという物語にはどうも興味が持てない。 それでもなお明るくふるまっていまを生きるという物語に惹かれる。 何がどうなろうととも最終的には死ぬのだから、途中下車してそこにひきずられないように、どれだけ小さな炎でもいいからこの瞬間を燃焼したい。その燃料になる音楽・小説・マンガ・ドラマ・映画・スポーツetc.に日々触れていたい。 この作品は僕にとってはあまり燃料にならない作品だった。

Clint Eastwood「クライ・マッチョ」雑感

Clint Eastwood「クライ・マッチョ」2021年公開 U-NEXT オミクロン株のせいで劇場公開は見逃した(22年1月公開)。初見直後の率直な感想としては、さすがのイーストウッドも、監督としても俳優としても衰えた感が強い。1930年生まれ(撮影当時91歳?)の実年齢にしては勿論相当頑張ってはいるが、毛髪は薄くなり、背中と膝は曲がっていて、滑舌も衰えていて、まだまだ何でもできる、女性に対してもまだまだ現役、というこの映画の役柄はさすがに時に痛々しく、脳内で30年くらい前のイーストウッドに変換しながら見た。 主人公側の2回のピンチを同じ手が救う(連れ歩く鶏が襲う)。 全体的に主人公側に甘い展開。 メヒコのムード(光、空気感、音楽)は悪くない。 この魅力は劇場の大きなスクリーンで観ればもっとしっかり味わえたと思う。

金子修介「みんなあげちゃう」雑感

金子修介「みんなあげちゃう」1985年公開 U-NEXT 公開当時に劇場で見た筈だが殆ど忘れていた。 ヒロイン・浅野なつみにサインを貰ったような朧げな記憶があるのだが、この記憶が確かなら、アルバイトをしていた池袋北口にっかつで舞台挨拶があり、事務室で待機中か登壇前にサインを貰ったのだろう。 ロマンポルノではなく、R指定の一般映画の筈だが、浅野なつみは序盤から脱ぎまくり。

平田オリザ「幕が上がる」読書メモ

平田オリザ「幕が上がる」2014年発行 講談社文庫 約340頁 自宅で見た映画「幕が上がる」は誰かアイドルが主演していた事しか覚えていなかったが、この原作小説には、なぜか、非常に強く動かされた。タイムマシンで高校時代に戻れたら、裏方でもいいから演劇部に入りたい、と思った。 定期的に見る夢(眠っている時に見る夢)に、映画の撮影現場や舞台の楽屋・舞台袖で何かをしている(出方ではなく多分スタッフ)夢があり、<バックステージもの>と名付けているその類の夢を見ると、なぜか、いつも懐かしい気持ちになる。ずっと昔から当たり前のようにその場所にいたような感覚。実際にはそんな経験は大学時代の自主映画撮影の現場だけだが、夢で見るそれはちゃんとした商業作品のような印象で、舞台に至っては学芸会レベルでも制作経験も出演経験もないので、普通に解釈すれば、過去に見た映画やドラマの話を自分の経験として再構成しているだけ、若干スーパーナチュラルに解釈すれば、誰かの記憶と夢の世界で混線しているだけだろう。ここ数年はこの類の夢を見ていないが、見ている最中も、目が覚めてからもしばらく続く懐かしい幸福な夢のムードを、この小説を読みながら想い出していた。それにしても、眠っている時の夢と、いつかかなえたい目標としての夢は、なぜ全く言葉なのだろう。 いま検索したら、2015年公開の映画の主演はもいろクローバーZだったと判明したが、それでも配役さえ想い出せない。百田が高橋だとしたら中西は??「桜の園」1990年版は大好きなのに、同じような高校生演劇ものでなぜこんなに印象に残っていないのか……。いま、ちょっと画が浮かんだが、トップシーンは誰かが失恋するシーンだったような。 昨日見た「佐々木、イン、マイマイン」にも通じるが、人生は一言で言えば、出会いと別れ。お互いが発しているエネルギーが(多分)強い青春時代の記憶は、永遠の刹那として、いつまでも強く残る。

内山拓也「佐々木、イン、マイマイン」雑感

内山拓也「佐々木、イン、マイマイン」U-NEXT 結局22年4月も一度も映画館に行かず、月末で失効するU-NEXTのポイントがあったので、ポイントを使って鑑賞。宇多丸さんがけっこうホメていた事は覚えているが、どういう風にホメていたかは全く想い出せない。 初見の感想としては、うまく言葉で言えないが、生理的にノレなかった。 藤原季節(悠二)の台詞の言い方(特に序盤の感情を乗せる台詞)が、あまり上手く感じられないと言うか、例の自然にやろうとする演技が一周してどこかひっかかる感じ、のように感じられ、この小さな違和感のような感覚が結局最後まで続いた。 泣いている赤ん坊を抱いて悠二がふいに涙を流す長いショット(おそらく最重要ショット)。 自分に子供がいる人はなにかしら動かされるショットなのではないかと想像するが、子供を持たない僕は、自分が大人になってからは、赤ん坊の泣き声は生理的に不快という感情しか湧き上がってこない。6歳年下の妹が赤ん坊だった頃の泣き声は不快に感じた記憶はないが、自分の子供や自分の身内の子供の泣き声はそれほど気にならないのだろうか。いずれにせよ子供の誕生は間違いなく青春の終わりの具象であり、このショットは、見る者に子供がいるかどうか、または将来子供を持つ事を強く現実的に強く意識しているかどうかで、全く受け止め方が異なるショットになる気がする。 根本的な疑問として、友人が高校の教室で服を脱いで全裸になるのを囃し立てて見る事は、そんなに楽しい事なのだろうか? もしあの教室にいたら、僕は囃し立てには参加せずに見て見ぬふりをするか、もしくは、黙ってひとりで教室から出て行ったような気がする。もう少し上の年齢で、例えば大学3年のサークルの海辺の夏合宿で、さんざん酒を飲んだ上で、その場に女子部員もいて、なにかとんでもない展開になる予感がなきにしもあらずな状況なら、囃し立てるのも、自分が脱ぐのも辞さない気はするのだが、そうなると全然意味は違ってきてしまう。つまり、佐々木が全裸になる事に性的な意味はなく、むしろ、脱ぐ事にどういう意味もない程に無意味(男子高校生的無意味な馬鹿騒ぎ)の象徴でしかない、という事なのだろう。 もっとつっこんで考えると、佐々木というキャラは、あんな風に裸になるが、あえて性的な行動から遠ざけられている、という解釈も可能かもしれない。男4人のうち2人は結婚し