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村上春樹「女のいない男たち」読書メモ

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村上春樹「女のいない男たち」文春文庫 読書メモ 映画「ドライブ・マイ・カー」は、同名の短編から人物配置、「シェエラザード」からエッセンス(セックスの後にストーリーを語る話)を借りて、多言語による演劇という要素を足して相当豊かに膨らませている。大きな違いは妻の死に方。原作は病気でゆっくりと最期を迎えるが、映画は突然死。 映画では主人公・家福は妻の浮気現場を目撃するが、原作は現場を見たわけではないのに浮気を確信している。文章を素直に解釈すれば、これは家福がそう思っているだけでそうとは限らない、という事になると思うのだが、それとも、この小説は一見一人称的三人称で書かれているが実は神視点である、と解釈するべきなのだろうか? 「ねじまき鳥…」にも、尾行している相手の顔の表情が見えるかのような描写があったと記憶するが、この書き方は毎回解釈に悩む部分。とはいえ、仮に明確に現場を目撃した、という描写があっても、自分でも気づかない深層心理による幻視かもしれないし、仮に妻が告白したとしても妻がウソを言っているかもしれない。明確な神視点文体で書かれた明確な客観描写でない限り、全ては不明確ではある、という解釈も可能。 一番楽しめた作品は「イエスタデイ」。 彼女とのデートでもっとイロイロ進展するバージョンを夢想。 「木野」は村上春樹の一連の長編の別バージョン(日常のすぐ隣に闇の世界がある)。 安定した面白さだが、ここからどんどん話が続く長編を読みたくなる。 単行本書き下ろしの「女のいない男たち」の延々と続く言葉遊び。 若い頃はこういう作品も嫌いではなかった気がするのだが……。 村上春樹プロフィール

村上春樹「一人称単数」読書メモ

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村上春樹「一人称単数」2020年発行 文藝春秋 全8作の短編集。 「共通テーマは死?」と思って読み進めるが、 明確に「死」が描かれているのは4番目まで。 5番目のヤクルトの話は父親とラインバック、 6番目の謝肉祭はシューマンの悪霊・自殺未遂、 7番目と8番目の話は文字面には「死」は描かれない。 小説としての濃度は7番目の猿の話で増加して、 8番目の話(特にラスト)で視界不良なレベルに達する。 1〜7番までなんとなく不思議な要素を含む話を連ねていたのは、 8番目の話のフリのように思えてしまった。 8番目の表題作「一人称単数」は、 村上春樹氏の多くの長編の世界観を簡潔かつ直截に凝縮。 日常のすぐ隣にある(或はレイヤー的に常在する)言葉で説明できない異世界。 私見ではデヴィッド・リンチ的世界観と相似形。 普段は見えないが、何かのきっかけで扉が開く。 最近は、多分自分自身の加齢による感性の変化で、 20代の頃のように村上春樹の小説にビンビン感応する、 という事はなくなってきているのだが、 あいかわらずどこか独特な文体・構成にそこそこひきこまれる。 読書のスタミナも年々衰えてて、 メモを摂りながら読まないと読むそばから忘れていくので、 いまやむしろ短編の方がありがたいかもしれない。 村上春樹プロフィール 作家(年齢順)

村上春樹「1Q84」

村上春樹「1Q84」 新潮文庫で再読中。 初めて読んだ時と同様に説明描写に冗長に感じる箇所がいくつかある。 過去の村上春樹作品の説明描写は、説明であってもどこかもう少しエッジは効いていなかったか? 例えば BOOK1後編 P258〜268の「さきがけ」の描写。 普通の設定に気が生えた程度のよくある冗長な描写が続き、単に文章として退屈なだけでなく、新聞の縮刷版のまとめとして疑問符がつく部分もある。 P267「報道関係者はおおむね、この教団について好意的な印象を抱いて帰路に就いた」と断定するくだりは、青豆がいくつもの新聞の縮刷版を読んで想像した、という事だろうか? 記事が「好意的」であってもひとりひとりの「報道関係者」が「好意的な印象」を持ったかどうかは判らないと思うのだが…。