内山拓也「佐々木、イン、マイマイン」雑感

内山拓也「佐々木、イン、マイマイン」U-NEXT

結局22年4月も一度も映画館に行かず、月末で失効するU-NEXTのポイントがあったので、ポイントを使って鑑賞。宇多丸さんがけっこうホメていた事は覚えているが、どういう風にホメていたかは全く想い出せない。

初見の感想としては、うまく言葉で言えないが、生理的にノレなかった。
藤原季節(悠二)の台詞の言い方(特に序盤の感情を乗せる台詞)が、あまり上手く感じられないと言うか、例の自然にやろうとする演技が一周してどこかひっかかる感じ、のように感じられ、この小さな違和感のような感覚が結局最後まで続いた。

泣いている赤ん坊を抱いて悠二がふいに涙を流す長いショット(おそらく最重要ショット)。
自分に子供がいる人はなにかしら動かされるショットなのではないかと想像するが、子供を持たない僕は、自分が大人になってからは、赤ん坊の泣き声は生理的に不快という感情しか湧き上がってこない。6歳年下の妹が赤ん坊だった頃の泣き声は不快に感じた記憶はないが、自分の子供や自分の身内の子供の泣き声はそれほど気にならないのだろうか。いずれにせよ子供の誕生は間違いなく青春の終わりの具象であり、このショットは、見る者に子供がいるかどうか、または将来子供を持つ事を強く現実的に強く意識しているかどうかで、全く受け止め方が異なるショットになる気がする。

根本的な疑問として、友人が高校の教室で服を脱いで全裸になるのを囃し立てて見る事は、そんなに楽しい事なのだろうか? もしあの教室にいたら、僕は囃し立てには参加せずに見て見ぬふりをするか、もしくは、黙ってひとりで教室から出て行ったような気がする。もう少し上の年齢で、例えば大学3年のサークルの海辺の夏合宿で、さんざん酒を飲んだ上で、その場に女子部員もいて、なにかとんでもない展開になる予感がなきにしもあらずな状況なら、囃し立てるのも、自分が脱ぐのも辞さない気はするのだが、そうなると全然意味は違ってきてしまう。つまり、佐々木が全裸になる事に性的な意味はなく、むしろ、脱ぐ事にどういう意味もない程に無意味(男子高校生的無意味な馬鹿騒ぎ)の象徴でしかない、という事なのだろう。

もっとつっこんで考えると、佐々木というキャラは、あんな風に裸になるが、あえて性的な行動から遠ざけられている、という解釈も可能かもしれない。男4人のうち2人は結婚して少なくとも1人には子供がいて、彼女と同棲している悠二にはセックスシーンがあるが、佐々木はカラオケボックスで知り合った女性と同棲か同棲に近い状態のようだが、性的なシーンはない。逆に言えば、そういうシーンは直接的には描かれないが、当然そういう事はあった筈で、その事によって、<童貞男子の青春の化身>のようなキャラである佐々木は役割を終えて、佐々木の死と自身の同棲解消で青春の有限性をはっきり自覚した悠二は、もう一度、佐々木に託された生涯の夢の実現にはっきり自分の意思で踏み出したのが、ラストシーンに一瞬挿入される、前髪を上げて強い意志を感じさせる表情で多分舞台に出て行くショット、という事なのかもしれない。

生理的にノレなかった気がしながら、雑感を書き始めると、これだけいろいろ浮かんで来るのは、なんだかんだ言いつつも、やはりこういう青春モノには、どこかで動かされてはいるようだ。鑑賞直後の生理的にノレなかったという感想は疑ってかかるべし。

ラストシーンの幻想(?)の佐々木コールは高校時代の佐々木コールより少し遅いテンポに聞こえた。もう一度見た時に確認したい。




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