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敷村良子「がんばっていきまっしょい」読書メモ

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敷村良子「がんばっていきまっしょい」幻冬舎文庫(2005年発行) ※マガジンハウス版単行本は1996年発行 読書メモによると、2000年にマガジンハウス版を読んでいるが、映画を見た直後に読んだせいか、あまり良い印象を持たなかった事しか覚えていない。 読書メモには「映画に比べて全然キャラが立ってない。映画(の脚本)の方が全然良い。 なんか日記みたい」と書いてあるが、そんな感想を持った事自体が忘却の彼方。21年前は映画の印象が強すぎて、映画版との相違に戸惑って消化できなかったのかもしれない、と想像する。 今回は21年前とは全く異る感想で、映画とは方向性が違うが、この原作にも独特な魅力があると感じた。 「走っていた」でという一文で始まる、短文を重ねる独特な短い文体。21年前の「なんか日記みたい」は否定的感想だったが、いま読むと、この独特な文体とリズムが魅力的。 一行空けのない段落間で映画の編集のようにポンと時間が跳ぶ構成も独特。終始ディープな内的主観と言える世界観は、映画の低音のノスタルジックな群像劇とは全く別物。 ただし、著者の文庫版あとがきに「めいっぱい赤字を入れた」とあるので、マガジンハウス版と今回の文庫版では、文体のリズムなどが変わっている可能性はある。 この20年間で僕自身の小説に対する感受性(特に青春小説に対する感受性)も多分多いに変化している。35歳の頃は、まだ自分の裡にあった青春の残滓のようなものが、距離を取って純粋に客観的に青春小説を読む事の障害になっていたかもしれないが、今はもうその残滓は少なくとも肉体的に実感できるレベルではほぼゼロで、10代後半に感じていた感情を思い出す事はできるが、自分の予想を越えたリアルな感覚が甦ってきて胸が苦しくなるような事はもう殆どない。年齢を経るにつれて、内部のこういう命のエネルギーそのもの、の・ようなものは、日に日に薄くなっていくのだろう。 原作・映画に共通するのは、うまくいくかどうか判らなくてもとにかく全力で挑戦する事が 重要、というテーマ。原作はボートと写真、映画はボートのみ。このテーマに合致する、最初からムリと思わずに打席に立ってバットを降る、という行動は映画のみ。 映画版との主な相違点 ◯腰を痛めた後半は大会では漕がない ◯カメラマンを目指して上京 ◯コーチは部のOBの中年の女性 ◯テンマ・カケルへの淡い恋心(映

磯村一路「がんばっていきまっしょい」雑感

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 磯村一路「がんばっていきまっしょい」1998年公開 美しい海、規則正しい掛け声。 使われている音楽はほぼ全部なかなか良い。 当時の流行語も取り入れた「アイコ十六歳」は「現在進行系の青春」だが、この作品は「郷愁としての青春」を描いている。使われなくなっている現在の部室を描く冒頭のシーンが補強、初見では伝わりにくいか? ①女子ボート部設立とその歩み ②コーチが次第に心を開く ③主人公と幼馴染みの淡い恋 大きくまとめるとと3つある話のうち、②に関してはそこそこ語られているが、①と②は、ドラマティックに盛り上げようと思えばいくらでもできそうな話を、あえて抑制して語っている。レース映画にはつきものの「勝つのはどっちカットバック」もない。 繰り返されるキャッチ・ローの掛け声とともにボートが進んで万燈会がオーバーラップしてくるショット(93分頃)、例によってその魅力は言葉では説明しがたいが、あえて陳腐に読み解けば、人生とは、たまたま乗り合わせた船を誰かと一緒に進めて行くが、気がつけば自分も他の人もいなくなっている(死)…それでも、特に若い時に小さな船に乗り合わせて濃密な時間を一緒に過ごした記憶がある人は幸福なのだ。 夏の終りの空いている映画館でひとりで観てじっくりムードに浸りたい作品。 演出なのか、たまたまなのか、高校生を演じている俳優たちの演技は、よくいえば素朴、悪く言えば棒読みなのだが、当時の流行語を排除した方言の台詞は妙に響く。演技でここまでのレべルはなかなかない「スパート」の絶叫(漕がないので声を出すしかない、途中から声が枯れる)。 がんばっていきまっしょい作品データ