柳沢きみお「翔んだカップル」雑感

柳沢きみお「翔んだカップル」週刊少年マガジン連載(78年〜81年)

◯げんざい2巻の途中まで。高校生のクラスメイトがふたりで同居するという基本設定以外は殆ど忘れていた。不動産屋の手違いでクラスメイトの美少女・山葉圭と一軒家で同居する事になった主人公・田代勇介は、当たり前のように、最初から「出ていってくれ」と圭に言う。単行本2巻からはメガネの秀才・杉村との仲が進展して、同棲を持ちかけられて断るが、いきなりキスされて、三角関係の様相を呈してくる。

◯一目惚れした圭と一緒に住めるなら、素直に喜んで、あわよくばこっそり仲良くなればいいし、そっちが無理なら、明確に誘ってくれている杉村とセックスしてしまえばいい。57歳の僕はいまなら単純にそう思ってしまうのだが、それでは少年マンガのストーリーにはならないので勇介は当然逡巡する。<逡巡>がこの作品のメインテーマで、大人になった後の続編、続々編でも続いていったような気がする。

◯16歳の勇介が逡巡する感情は多少は判らなくもない。僕も10代の頃は自分の性欲に対して若干後ろめたいような感情があった。ありていに言えば、好きだからセックスしたいのか、セックスしたいから好きな気がするだけなのか、自分でもよく判らない、という禅問答。

◯引越し準備の断捨離で紙のマンガ単行本は殆ど処分したのだが、柳沢きみおの作品は、ダンボールが一時的にきれた関係で処分せず、久々に紙の本で読んでいる、iPadで読むよりも活字も小さくて読みにくいが、紙ならではの味わいはたしかにある。手と指が覚えてる初めてこづかいで買った「サーキットの狼」を何度も読み返した記憶。読み返したい頁をパラパラめくって探すのはiPadの全頁一覧表示に比べれば面倒だが、紙の本パラパラの方が指は楽しい。(2023/02/08)

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◯2巻を読了。本来なら全シリーズ全巻読み終えてから書くべきなのだが、あえてその都度書いてその都度あげてみる。このマンガが連載されていた1978年当時、作品の感想を広く世間に発表する手段は、新聞・雑誌・ラジオへの投稿程度しかかった。いまなら、SNS/ブログ/自分のホームページなど無数にある。これは、よく考えれば、本当に凄い事だ。例えばYouTubeで「このマンガを読んでみた」みたいな感じで読みながら感想を喋る動画なんかもあったりするのだろうか。

◯マンガやアニメでおなじみの「メガネをとったら美人だった」は2巻P37(杉村)。実際はメガネをかけていてもメガネの奥の目は見えるので、美人は美人に見える筈。たとえサングラスをかけていても、目以外は見えているのだから、少なくとも美人っぽくに見える筈。昨今の「マスク美人」の方が、マスクを取るとそうでもない、と思う確率が高い気がする。

◯余談だが、映画やドラマで女性がattractiveに見えるように撮る為に必要な要素は、メイク、髪型、服装、ライティング、撮る角度、話し方といろいろある。メイク次第でかなりのレベルまでなんとでもなるという厳然たる事実はゆにばーす・はらのメイク動画を見れば明白だが、せっかくメイクが決まってもライティング(光量設定を含む)と撮る角度によっては台無しになる。VRのセクシービデオはこのふたつ(特にライティング)が残念な作品が非常に多い。

◯1巻のクライマックスで最後にキャプテンをKOしたボクシング要素は、2巻の対抗戦(P120~)に引き継がれ、ボクシング部のキャプテン織田が圭にからむ話は多分ここで終了。

◯新たなライバルとして、チャラい不良ロッカー渡瀬が登場(P161)。長髪・ハンサムで酒・タバコ・バイク・女好き、キャプテン織田とほぼ真逆のキャラ。当時の言葉で言えば、渡瀬は軟派の不良、「初恋スキャンダル」のリーは硬派の不良になると思うが、キャラの原型はほぼ同じで、積極的にからんできて主人公側を日常の外に誘うキャラ。さかやかスポーツマンキャラのテニス部磯崎ははっきり圭にフラれる(P165)。

◯勇介は杉村にいきなりキスされて(P76)対抗戦の後はしばらく泊めて貰う。リアルならそのまま杉村との仲が進展するのだろうが、少年誌なのでそうはならず、メガネの中山もしぶとく圭への想いを秘めていて、さらに北条学園の遊んでる風のふたり組女の子も登場して、かなりわちゃわちゃしてきた。この辺は、人気投票の成績が悪くないので、ある程度連載が続く事を見越しての展開だったと想像。

◯勇介が「こんな時間まで暴走族となにやってたんだよ」と圭をなじる(P174)。前の頁には、渡瀬のバイクに乗って帰ってきたのを勇介が見ているカットはないので、厳密に読むと、勇介が渡瀬を認識していたのかどうか判断が難しいが、例の「観客(読者)が知っている事は主役は知っている理論」も援用すれば、バイクの音を聞いた時に窓を開けて確認したカットが省略されている、と判断したい。

◯表紙をめくった所の数行紹介には<恋愛コメディー>とあるが、実際は、好きな女の子と同居するドタバタコメディは1巻で織田をKOした時点で終わっていて、2巻からは、続編・続続編とどんどんシリアス・リアルになっていくムードがじわじわ増している。とはいえ、1978年の現実の健康な男子高校生なら圭に迫って杉村と進展する筈、というリアルは少年誌では描けない。勇介は圭への思いがあるので杉村に行けない。圭に対して行けない(素直になれない)理由に関しては、途中から、勇介自身にもよく判らなくなっている、と読めなくもなく、その曖昧な部分が面白い。2巻は圭が家を出ていくシーンで終わる。(2023/02/09)

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◯3巻読了。表紙折込部分の数行紹介は<恋愛コメディー>から<微妙な恋心を軽妙なタッチで描く>に変わったが、既に<軽妙なタッチ>でさえなく、主要登場人物全員が悩んでいて第1巻の最初の方とは全然違うムード。
◯2巻のラストで出ていった圭はいったん戻ってくるが再び出て行き、圭のアパートに住む男(新たなライバル?)が登場、ボクシング部織田とテニス部磯崎は退場して、北条学園のふたり組は登場しないが、遊び人の不良・渡瀬、同居を密告した挙句に不登校になったメンヘル・中山の話はまだまだ続きそう。それにしても、過去に2回は読んでいる筈なのに我ながら驚くほど忘れている。中山は自殺するんだっけ?
◯杉村は本当の自分の気持ちは自分でも判らないと言う(P99)。人間ドラマを極限まで因数分解すれば、その根幹は、迷った時に行く/迷った末に行かないという決断を描く事にあると思う。決断の理由を丁寧に描けば心境小説になるし、決断の理由をあえて描かなければハードボイルドになる。

◯勇介と圭と杉村が初めて3人で話をするシーン(P94~)、圭は「好きなだけじゃダメ、愛してないと(キスやキス以上の事をしてはダメ)」と言う。「愛」は何かなんて57歳の僕にもよく判らない。そんなあるかどうかも判らないモノと性欲の区別が、高校生にできる筈はなく、この台詞は、この作品に一種の呪いのような効果を水面下で与え続ける気がする。

◯「愛」なんてモノはあると思えばあるし、ないと思えばない、おばけみたいなもの。または、個人の心の中には、様々な形で存在するかもしれないが、それを永遠に共有する事は困難な何か。誰かと一瞬でも共有できた気がしたらそれは幸福な奇跡だが基本的に永続はしない。もっと即物的に解釈すれば、そもそもは、教会と資本主義が複雑に絡み合って世間に広めた、甘い幻想で人々を支配する為の方便ではないか?(2023/02/18)





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