中原俊「櫻の園」1990年公開 青春映画の佳作。 女子校演劇部の朝の数時間、創立記念公演の幕が上がるまでのあれこれ。 何気ない会話、女性同士の淡い恋慕、ちょっとした事件。 学校(部活動)という同じ場所に毎日集まって仲間と過ごした時間、その最中は永遠に続くかのように思えた時間(青春)は、気がつくと過ぎ去っている。 アイスを食べながら語る前半のクライマックス、「先輩たちは今年しかない、私たちは来年しかない」という台詞は、コロナ禍のいま(2021年夏)見ると余計に沁みる(41分頃)。 「1年後には私たちはもうここ(部室)にはいない」と感慨を持って言えるのは、まだ青春の渦中にいるから。いずれ「100年後にはいま生きている人の殆どは、もうここ(地球)にいない、1年後も100年後も、いつかは必ず来るという意味でそれほどの違いはない」という諦念の境地に否応なく近づいてしまう。 公開当時に劇場で鑑賞した時は、ぎりぎりの年齢(24歳)で主人公の高校生たちに自然に移入して、アクチュアリティあふれる台詞に非常に感心したのだが、31年後のいま見ると、もちろん当時の若者の話し言葉のムードや流行が垣間見えて面白い、とも言えるが、当時の話し言葉が多用されている分、31年分古びている、とも言える。1990年春でなければ成立しない、という話ではないので、大林宣彦的方法論で、時代の流行を取り入れない棒台詞の方が、逆に永遠の古典性を強めた可能性もある。 ラスト間際、唯一大人同士が会話するシーン(演劇部顧問と元演劇青年の男性教諭が桜並木で語るシーン)、生徒たちの「いま」もいずれこのように過去の想い出になるという真理を補強する効果をになってはいるが、このシーンなしで、完全に全編徹底して生徒視線で描ききった方が、物語はより純粋に結晶化したような気がする。大人がひとりも登場しない描き方(教師も姉も伝聞または画面外でのみ登場)もありえたかもしれない。 「恋人たちの予感」のBilly Crystalのように毎日のように死について考えてしまう僕は、誰もいない部室に桜の花びらが舞い込んでくるラストショットで涙腺が緩む。僕は、この手の空ショットにはどうにもヨワい。「リンダ リンダ リンダ」のラスト演奏シーンの校内(特に下駄箱あたり)、宮崎駿「風立ちぬ」のエンドロール…。 映画美学校に通っていた頃、じんのひろあき氏と一緒に...