大島渚「新宿泥棒日記」
大島渚「新宿泥棒日記」Netflix(初見)
Nouvelle Vagueな趣に満ちた怪作。
渡辺文雄や佐藤慶のセックスに関する観念的なやりとりは、当時の若者が劇場で観たのなら同時代的感覚溢れる刺激的なモノだったのだろうか? 俳優がある程度素を出して語っているようにも見える面白さはある程度あるのだが、しっかり表情が判るような撮り方(照明)をしていなくて、そこがまさに前衛的(狙い)なのだろうが、1950年に生まれて18歳の時に新宿の小屋で封切りで観れば全然違った感想を持つのかもしれないが、2017年に予備知識なしでNetflixで見ると「なんじゃこりゃ」と言いたくなる。
新宿駅前の実景、(今も変わらない)紀伊国屋書店の階段、(実際にこんな感じだったと思われる)状況劇場のテントなどは、ある程度ドキュメンタリー的に楽しめるが、全体的には観念や思想や前衛性が前面に出過ぎていて、その辺りをきちんと理解するには、僕にはサブテキストが必要。
神保町シアターで観た「日本の夜と霧」にも観念的で不毛な議論がたくさんあったが、観ているうちにある種の迫力(映画的魔術)で引き込まれる瞬間があった。この作品も劇場で大きなスクリーンで観れば或は違った感想になるかもしれないが、それにしてもぼそぼそ喋る横尾忠則は魅力不足、ぼそぼそ話すので聞き取れない台詞がいくつかあった。
最近の殆どの映画は「自宅でビデオ(DVD、Blu-ray、配信)で見る」事を前提にして作られていると思うが、1969年公開の「新宿泥棒日記」はおそらくテレビで放映される事さえ前提になく、新宿の映画館で10代〜20代の観客が観てハマる事を想定して製作された、と想像する。
その想像力とサブテキストで得た知識を駆使してある種勉強的に見るのが正解なのかもしれないが、その一方で現に37インチのモニターで配信で何度か休憩しつつ見ていて、もっと気楽に楽しみたい、という事実(気分)もあり、この手の昔の作品を見る時の僕の立ち位置は、常にその一種のダブルスタンダード的な部分を行き来しているようだ。
可もなく不可もなく破綻もない(そして面白みもさほどない)最近の多くの作品よりは、たとえ自宅の配信鑑賞でも、この作品のザラついた印象はこの先も残り続けると思う。
顔も声もタイプだったヒロイン・横山リエは大いなる救い。
どれだけ掴めなかった作品でもヒロインが魅力的なら許すw
いまリメイクするなら水原希子か?
大島渚プロフィール
横山リエプロフィール
コメント
コメントを投稿