三島由紀夫「盗賊」雑感


三島由紀夫「盗賊」雑感

2019年は三島由紀夫の長編を時系列に読んでいく事にして、1948年発行「盗賊」を新潮文庫で。以前に1回は読んだはずなのだが見事に全然覚えていない。
一応具体的な行動・事象は描かれているものの限りなく観念小説に近い。

自分の心と自分の言葉はどこまで一致するのか?
P188 髭のタクシー運転手の話は<不一致のメタファー=この作品全体のテーマ>か?
簡単に言えば、言葉にした瞬間にどこまで本心を語っているのか自分でも判らなくなる、
という事なのだろうと想像するが、心情描写が過剰なペダンティックと言えるレベルで語られていて、一読して判りにくいのは、斯様に多くの言葉を連ねて語れば語る程、「本心」などというモノはよく判らなくなるという事、と解釈したい。

「本心」はそもそも本当に存在するのか?
「本心」を言葉で語った(つもり)時にそれは相手にどこまでしっかり伝わるのか?
例えば「好き」という単純な言葉。
人物Aにとっては「死ぬほど愛している」と殆ど同義で滅多に口に出さない言葉で、
人物Bにとっては「嫌いではない」程度の挨拶代わりに口に出す言葉かもしれない。
同じ「好き」でも、相手・気分・その他の理由で同じ人が違う意味合いで用いる事も多分多いにありえる。

斯様に言葉、特に心や感情を表す言葉が持つ意味はどこまでも曖昧なようだが、それでも我々は言葉を用いてコミュニケーションして物語を紡いでいくしかない。

「豊饒の海」の衝撃のラスト(本多と聡子の60年ぶりの再会)は、「言葉」や「記憶」の曖昧さを永劫に残る遺言の如く突きつけていたが、そのテーマは、この長編第1作目で既に、考えようによってはより複雑に、ある種メタ的に顕現している。


三島由紀夫プロフィール



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